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学校での作文教育が必ず失敗する理由を発見

2006年11月9日

みんな児童、学生のころ、作文は好きだったであろうか? 私は、「作文」にも書いている通り、 苦手どころか、何とかして逃れる方法はないかと考え、 文集からぱくっていた有様だった。 要するに、筋金入りの作文嫌いだったし、同級生も国語教師も良く知っていた。

そもそも、なんで作文を書かなければならないのか、さっぱり理解できなかった。 本はそれなりに読んでいたが、でも、読書感想文を書くために読んでいたのではなかった。 そんな義務が発生するのなら、読むこと自体を放棄したい状態だった。

社会人になって、間違ってパソコン出版社の関連企業に飛び込んでしまった。 パソコン出版社なら、まだ誰も触ったことがないパソコンに触れて、皆に自慢できたり、 自己満足に思いっきり浸れると思ったからである。そして、実際その通りだった。 その通りを通り越して、まだ製品として世に出る前のパソコン、それもあちこちのメーカー のパソコンに触れたのである。

そのようなパソコンのマニュアル制作の仕事がしばしばあった。 設計途中のパソコンがやってきて、正常に動かないかったり、 動かしているうちに動作がどんどん怪しくなったりするのだが、 なんとか調整しないと仕事にならないので、何とかしていた。 製造番号さえついていないコンピュータを使うと、非常に技術力アップに繋がるので、是非挑戦して欲しい。

そういうマニュアルやら、本、雑誌、テキストなどを作るというのが実際の仕事というのが発覚したときは、 既に手遅れだった。プログラミングも重要な仕事だったが、一番苦手な作文こそが仕事だったのだ。 迂闊であった。誰も知らないような新しいパソコンに触れるけれど苦手な作文と闘い続けるか、 それとも逃げ出すかの選択だったのだが、結局金をもらって新し過ぎるパソコンに触る道を取ってしまった。

しかし、誰も文章の書き方を教えてくれる訳でもないので、適当に書き方の本を読み、 目の前に存在したわかりやすそうな本などを手本に、延々と書いていた気がする。 何年かして気が付いていたときには、書くこと自体、歩くことと同じような感じになっていた。 恐しいものである。

出版社に限ったことではないが、会社というところは、色々なものを作っては提供することが多い。 そういうときには、結局作文という作業が発生する。 製品の重さより、マニュアルの重さの方が重いモノは珍しくもないだろう。

ちょっとした会社なら社内報があったりする。 ホームページがあって、あれこれ書いて広報活動をするのは今や常識になってしまった。 メルマガを出したり、ブログがあったり、色々だ。 結局、会社というところでは、そういうことを多かれ少かれやっている。

ビジネスを考えると、とにかく潜在顧客に、知ってもらう、興味をもってもらう、理解してもらうことが非常に大切だ。 そうしないと、客は増えず、倒産が待っている。それが嫌なら、どこかの下請くらいしか手はないだろう。 下請になるのですら、色々知ってもらう必要があるので、そんなに楽ではないだろう。

そういう訳で、企業というか、社会では、基本的に情報を伝えるという、作文の本来の存在理由がちゃんとある。 作文が良ければ、少々悪い製品ですら、使いやすいといって使って貰えることが多い。 長いマニュアルのようなものから、短いキャッチコピーまで、ビジネス界では作文は非常に重要なものである。 作文がうまければ、作家にはなれなくても、売り上げを伸ばし、収入を増やせる可能性は非常に高い。

学校での作文について考えてみよう。 学校での作文は一体何のために書いているのだろうか。 宿題、義務というので書いていることはあるが、それ以上の目的は存在するのだろうか。 本を読んで、その感想文を書いて、先生に「自分はどう感じたかを伝えたい」と 本当に思う人っているのだろうか。いたら変な人ではないだろうか。

私の行ったごくごく普通の県立高校では、読書感想文で、 「この本はこんなに詰まらなかった、金を返せと思った」と書いて良いことになっていた。 こういう高校だから、何名も作家が出てしまったのかと今になって思う。

学校での作文というのは、とくに何かを伝えたいなどという意志が無い者が義務で作文し、 その作文をとくに情報を得たいという意志もない先生が読むのが通常の構図ではないだろうか。 先生の立場も大変だ。とんでもない文章を延々と読み、色々指摘して、 さらに生徒を喜ばし、おだてなくてはならない。 とても私にできる仕事ではない。大変な忍耐力がいる。

学校で作文教育ができる機会といったら、 教師があこがれの人で、自分の思いを伝えたいとき位ではないだろうか。 しかし、そんな機会はそんなに多くは無いだろう。

情報を持っている人が、情報をだれかに伝えるために文章を書く。 社会ではそれが機能するが、学校というのは、学校であるが故に機能できない。 これぞ、作文教育の根本的ジレンマだろうか。

学校での作文教育と、社会で必要とする作文の間には何も関係がない。 学校での作文嫌いこそ、社会で通用する文章を書けるようになる可能性があるかも。



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