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本を書くということはどういうことか

2008年1月28日

さて、今日は、書く、とくに本を書くということについて考えてみよう。 本を書くからには、たくさん売るか、たくさん配るか、いずれにしろ多くの人に 何らかの内容、下らなさ、馬鹿さを伝えたいこともあろうが、 そういうこと一切を含めて、知らせたり、記録として残すなり、何らかの目的がある。

商業的に考えれば、採算が非常に重要だ。 まあ、出版社は、一冊一冊よりも、トータルとしてどれだけ売れてビジネスとして 成り立つかというのがある。

つい最近、自費出版の大手、「新風舎」が倒産した。 出版業というと、なにか知的な業界で、憧れる人も少くないと思うが、 中小出版社に限れば倒産は日常茶飯事である。 なぜかといえば、DTPが発達し、編集は簡単になり、 書籍の出版点数はどんどん増加傾向にある。 昔なら、原稿を出版社に渡してから、ゲラが戻ってくるまでにかなり時間がかかったものだが、 編集部で大幅に文章に手を入れるなどしない場合には、本当に瞬時にゲラが出てくる。 雑誌のコラムなどだったら、1時間で戻って来ることもあり、一服する暇もない。

DPT化により、印刷までの工程は楽になったようだが、 問題は売れているかどうかだ。 今、本はどんどん売れなくなっているのが実情だ。 Wikipediaには、 「出版不況」 という項目まで用意されている始末だ。

この10年間、業界全体の売上げは、ほぼ一直線に下降している。 今後も、ますます下降することを誰もが予想している。 売上げが減りながら出版点数は増加し続けているので、利益はますます激減しているに決っている。 実に恐しい業界だが、それでも、全体の規模は大きいので、 不況業種といえどもごく一部の出版社は利益を出し続けることができる。

こんな訳だから、まあ、簡単に本が売れる訳がない。 本を読まなくなった人が増え、全体の人口も減少しているので、日本に限れば先は明かに暗い。

しかし、やはりちゃんとまとまった知識を得たいと思った場合には、今でも書籍は非常に重要だ。

そういうビジネス的なことは世間でごちゃごちゃ騒がれているので、 別の視点の考えを書く。 それは、「書く」ということ自体についてである。

本を読む人が減ったとはいえ、まだまだ読者はかなりいる。 しかし、読者に比較して著者は非常に少ない。 薄い本なら1、2時間もあれば読めるだろう。 しかし、その程度の本でも、執筆するとなったら、1ヶ月くらいはかかる。 書くのは、読むのに比べて、少なくとも数十倍の時間を要するとんでもない作業である。

本について勝手気ままな批判をする者は多いが、「では、自分で書けば」と促すと、 ほぼ確実に全員が逃げ出してしまう。 こういうのを無責任という訳だが、本当にそういう輩ばかりである。

本は、やはり、書いてこそ意味がある。 そして、世間の目に晒して、初めて本当の価値が出てくる。 本を1冊書けば、ミスは当然は入ってしまうだろう。 些細な辻褄などどうでもよいことで、本全体として何を主張しているかが大切である。 なのに、某国の阿呆な教育のせいか、重箱の隅しか指摘しない者が多い。 本人は本を読んだつもりだろうが、実際は読めていない。

本を書こうとすると、情報収集や熟考することが必要となる。 いや、本でなくても、不特定多数の目にふれるような文章なら何であれ、 さまざまなことを考慮しながら書かねばならないので、非常に勉強になる。

大学では、ほとんど誰も読まない論文を書くようだが、 あれは殆ど書く訓練にならない。 実際、大卒、大学院卒に、何らかのまとまったものを書いてもらおうとすると、 殆どが逃げ出したり、とんでもない出来だったりすることが多いことからも、 論文を書くことと、書くことが如何に違うかがわかるだろう。

論文とは、極めて限られた井の中の蛙の世界の読者に対して書くことが多い。 論文とは、特に書の形になっていなくても、情報が存在していれば目的を達成している部分も大きい。 象牙の塔ではなく、一般社会では、書くとは、情報を伝えることである。 人に伝わりやすいように、記憶に残るように(場合によれば記憶に残らないように)書かねばならない。 ちらし1枚作るのさえ、結局経営に関係してくるので、色々考える。

本を書くのは、どんな勉強よりも勉強になる。 自分の考えがまとまっていないと、本にならないのである。 できることなら、学生、院生の間に、1冊くらい本を出版してみる経験をしておいて欲しいものだ。 しかし、本も書けない大学教授とかが多い現実を考えると、あまりにも高い願望だろうか。

さて、まとまりが無くなってきたので終りにしよう。


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