ホームページ目次前の話次の話

正しいことを目指した間違った教育

2008年2月23日

いつの頃からか、どうも学校教育、それも大学教育が、 大学教育を放棄したのかと思えることがある。 というのは、大学生なのになぜか「正しい」ことだけを気にする人が多くなってしまった。

別の言い方をすると、最初から答え、正解を用意できるような問題を与えられ、 それを正しく解くのが大学生のやるべきことと勘違いしているようなのである。 答えを用意できるような問題なんて、世の中そんなに多くない。 状況を見ながら、適当に、妥当な判断を下し、対処するしかない。

教科書に書いた通りのことが起きることなど、めったにない。 何か組み立てるにしても、材料が手に入らないこともあり、 代替品を探す必要があることは日常茶飯事だ。 そういう代替が何もできないようでは、 それは何も理解していないのと同じではなかろうか。

プログラムを作るのでも、どこかに転がっているものを単に繋ぎあわせて 何とかしようとする。 そもそも、自分が今作っているものに適しているかどうか、 そういうことも考えず、見付かったものを単に繋ぎあわせようとすることが多いようだ。 おかげで、無着苦茶なものができる。 単に繋いでいるだけで、理解した上でやっているわけでないので、 たとえ動作していても偶然動いているだけのことが多く、おっかないプログラムができる。

そもそも、正しいことを教えるって、正しいのだろうか。 それ以前に、「正しいこと」って何なんだろうか。 教科書に書いてあること、本に書いてあることが正しいなどいっていては、 とんでもないことになる。 そこまで教科書や本を信じて大丈夫だろうか。 時には信じることも必要だろうが、盲目的に信じていては駄目だろう。

「正しいこと」っていうのも、状況によってもちろん異なる。 部分的には正しいけれども、全体としては間違っていることはよくある。 全体をきちんと掌握しなければ、正しいなどということは到底言えないことが多い。 まして、「自分が正しいと思う」ではもっと困ったことになる。 そもそも、正しいと正しくないをどうやって判断するのだろうか。 そんな難題は、神様でも判断に困るに違いない。

人間社会を少しばかり垣間見てきたが、 「正しい」を主張する人が正しかったことは珍しい。 どちらかというと、何か隠し事でもしたいのではないかと思ってしまう。

正しいかどうかなど、はかないものであろう。 生命の歴史を見れば、生き残ったものが正しかっただけに過ぎないようにしか見えない。

新しいことに挑戦しようとすると、 ほとんどの人が「間違っている、止めろ」と言う。 逆に言えば、皆がそれは新規性があるということは、それには新規性がないということだ。 皆が納得できる、たとえば会議で合意が取れたならば、それには新規性がない。

大学というのは、答えが決っていることを学習するところ、 つまり、マニュアル化されてしまった接客係りみたいな、 つまりロボットでもできるようなことを教える場所ではないだろう。 そういうマニュアルがないと動けないロボットを作るのは大学として結構だが、 マニュアルがないと動けない人間を作ってどうするのか。

いや、これは大学に対して言うより、どうも学生に対して言わないといけないようだ。 何でこんな学生が決して少なくないという状況になってしまったのだろうか。 実際、あちこちの大学の先生から聞いている。 大学のレベルはあまり関係ないようで、一流大学でも、末流大学でも、 同じ状況らしい。

大学というより、高校までの教育の影響なのだろうか。 「新しい未経験の状況に出食わしたときに、適切に対応できるようにすること。」 これが教育というものではないだろうか。

正しいかどうかなど、つまらぬことを考えているから、 対応能力という人間にとって一番重要な能力が消えてしまう。

大学よ、入試に答えのない、正解のない問題を出す勇気はないのか。

O'Reilly Japan刊

3/14発売

出版記念
プレゼント

オープンソース
Scheme言語処理系
Gaucheの愛好者団体

詳細はブログで


ホームページ目次前の話次の話