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学歴/その1

岡山県児島市立赤崎小学校、岡山県児島市立味野中学校までは地元の学校へ 行く。

味野中学校は、海面下にある学校で、大雨が降ると、水が校庭にたまり、ト イレもなにもかも水没することで有名だった。校庭の周囲には溝があり、引き 潮のとき水門を開けて排水していた。いちおう排水ポンプはあったが、集まる 水量の方が多いとあっというまに水没であった。この中学は、戦後のドサクサ のときに、塩田の上にうっすらと土をまいて、その上に校舎を建てたのでこう いうことになっていたのである。

中学のマラソンコースは、確か9.3キロ位で、途中に峠が3つもある難コー スであった。マラソン大会の練習のために、学校のすぐ脇に、1周2.3キロの 特設練習コースがあり、毎朝1周走ったりしたものである。

そのときのマラソンコースの中に、今のJR児島駅やら、郵便局、市民病院、 ショッピングセンター、ファッションセンターなどが建ち並んでいる。もう、 そんな事を知っている地元民も少なくなった。

高等学校は、地元の県立高校(児島高等女學校)へ行けず、岡山市内の県立 高校へ行く。 第一岡山高等女學校(一女) が本来の学校名で、女性大臣なども輩出したり、戦前、オリンピックで銀メ ダルを取った人見絹枝が出たりという女子中心の高等学校へ行った。体育館に は人見絹枝の像があった。

いまでこそ、児島から岡山まではJRの瀬戸大橋線ができて、通学範囲になっ ているが、私が高校生の頃は、下津井電鉄(俗称イモデン)という、日本で一 番幅の狭い鉄道があり、それで通うこともできたが、あまりにも時間がかかる ので下宿するのが一般的だった。私も、地元民が必ずとる 山陽新聞社の印刷局局 長の家に下宿していた。毎日、朝に夕に、新聞を配達していた苦学生というわ けではなく、ただ、下宿の主人が、偶然にも地元の新聞社の幹部であったとい うだけの話である。

そのときお世話になった下宿のおばさんは、息子のところへもう行っていて 家は売られていたのは知っていたが、岡山へ寄った時に、ちょっと車で通りか かったら懐かしい家がなくなっているのでよ〜く見たら、何と、仏壇屋の駐車 場に変身してしまっていた。あ〜ぁ、私の青春もどんどん無くなっていく。

さて、高校もなんとか卒業でき、これからの世は、もっと勉強をしておいた 方が賢明ではないかと考えた。それで、さらなる高等教育を受けたいと青雲の 志で上京。しかし、東京大学は入試すら行わず、学園紛争に明け暮れていた。 それで、なんとか入れそうな東京職工学校だったところで自然の理を学ぼうと した。

その後、東京大学工学部精密機械工学科にはプログラム職人として一時滞在 する。その時、手に入れた生協の組合員証(教職員用)は、住処が文京区とい うこともあり、本を学割で手に入れるのに時々使っていた。今は、世田谷区に なったので、ちょっと遠い。


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